高校ラグビー史上最強のスクラムを組めるプロップになる。

入学当初は誰からも相手にされず、

馬鹿にされた夢をひたむきに追いかける選手がいる。

愛する母を亡くしながらも、​自分の信じた道を突き進む。

高校ラグビー史上最強のスクラムを組めるプロップになる。

入学当初は誰からも相手にされず、馬鹿にされた夢をひたむきに追いかける選手がいる。

厳しく育ててくれた愛する母を亡くしながらも、​決して見失うことはなかった自分の道を、人生最後の花園で体現する。

生い立ち

2001年5月、藤倉は東京都多摩市で生まれた。

生後まもなくして小児喘息に悩まされ、約2年間の入院生活を送らざるを得なかった当時の状況を「檻に囲まれているみたいで、ずっと外に遊びに行きたいと思っていた」と話す。

幸いにも症状が改善して退院が許可され、食欲旺盛だった藤倉はますます元気に成長した。

 

保育園を卒業すると、小学生時代は転校を繰り返しなかなか学校生活に馴染めなかった。

ちょっとしたことにカッとなってしまったり、売られた喧嘩を買ってしまうことも多く、「当時は乱暴な性格だった」と振り返る。

 

幼稚園の先生に勧められて始めた柔道にも励み、本人は「あまり楽しくなかったし、ストレスになることが多かった。」と当時の厳しい稽古を振り返るが、小学校3年時には全国大会優勝。日本一に輝いた。

しかしその大会直後、重度なストレス性胃腸炎を患い、柔道を引退することを決断。全国制覇を果たした翌週から、道場に戻ることはなかった。

ラグビーとの出会い

柔道を辞めた後は特に他の競技を習っていたわけでもなく、何か別の競技を見つけたいと感じていた。そんな小学4年生のある日、なかなか寝付くことができず、夜中に1人テレビをつけると、たまたま放送されていたのは2011年のラグビーW杯決勝戦、ニュージーランド対フランスの試合だった。

 

元々父がやっていたこともあり、ラグビーというスポーツがあることは知っていたが見たことはなかったため、この時テレビの画面越しに初めて目にした。

 

「ボールを持っていれば相手にぶつかって突き飛ばしてもいい豪快さに惹かれた。なんだ、この楽しそうなスポーツは!と思ったのが第一印象。当時少し乱暴な性格だったこととも重なるところがあった。」と、当時の鮮明な記憶が蘇る。

 

翌朝、すぐに父親に「ラグビーがやりたい」と相談し、地元の名門・横浜ラグビースクールの門を叩いた。

 

ラグビーを始めたばかりの頃は、柔道のために作り上げた80kgの体がなかなか思い通りに動かず、毎週末の練習は本当にきつかった記憶しかない。父・〇〇さんは、自身の選手経験も踏まえて「すぐに辞めるだろうと思っていた」と言うが、藤倉は「辞めようと思ったことはない。自分がボールを持っている時が楽しかったから。」と断言する。

不完全燃焼だった中学時代

小学校高学年になると、転校した先の小学校で同級生と揉めることが多くなった。

学校でのトラブルの件で、先生から親に連絡がいくことも多くなり、母に叱られる日々が続いた。売られた喧嘩を買ってしまう自分の弱さと葛藤しながら、母とは「ほぼ毎日、すぐ口論になっていた」と反抗期の自分を省みる。

 

中学校に入学してからは所属チームを世田谷ラグビースクールに変え、スタメンでの試合出場を目指したが結果が出ることはなかった。ほとんどメンバー外かリザーブからの出場だった当時を振り返り、「悔しかった。何よりもスクラムがノーコンテスト(=中学生は安全面を重視するためお互いに押し合わないことが決められている)で、自分の体格を生かせなかったことが悔しかった。『高校では俺が活躍してやる』とずっと思っていた。」と中学時代を振り返る。

高校ラグビーへの想い

中学生でここまで「スクラム」を意識していた背景には、父の教えがあった。「スクラムで仕事ができない奴は、プロップでいる意味がない。」

この言葉を聞いた藤倉はいつしか「スクラムで全国ナンバーワンになりたい」という強い思いを抱くようになっていた。

 

高校入学後は、念願のスクラムで勝負ができるようになる。

進学先は「日本一のスクラムが組めるから」という理由で、國學院栃木高校に進学することを決めた。

父親の高校時代の先輩でもあった吉岡肇監督からも「でかいなぁ。」とその体格を評価されたと言う。

 

「高校ラグビー史上最強のスクラムを組めるプロップになる」と入部当初から宣言。当時は馬鹿にされ、悔しかった。

しかし、そのとき売られた喧嘩は買わなかった。

「ラグビーがなかったら不良になっていた。ラグビーで人生変えてやる、だからラグビー頑張った。」と当時の強い意志を噛みしめる。

 

1年時から全国大会(花園)に出ることを目標に、目の前の練習に必死で取り組んだ。

全体練習が終わってからも、トラックタイヤを2個、3個、4個と積み上げて押し続けた。

足の裏にできた500円玉ほどのマメが潰れ、血まみれになった日も自分を信じて押し続けた。

初めての花園

血の滲む努力の成果もあり、初めての花園では初戦からスタメンを勝ち取った。

柔道以来の久しぶりの全国大会だったが緊張することもなく、「1年目だったし、失うものは何もなかったから、自信を持って戦えた。自己採点は80点。スクラムでも手応えを感じたが、もっと強くなれるという想いの方が強かった」と初めての大舞台を振り返った。

 

しかし、全国大会を終えて久しぶりに実家に戻った藤倉には思いもよらぬ悲報が待っていた。厳しく育ててくれた母・陽子さんとの別れだった。反抗期には愛情ゆえの厳しさにぶつかった日々もあった。自分が幼い頃から闘病生活を続けていた母の訃報を聞いた藤倉は「天国にいる母親に恩返しするためにラグビーに励む」と心を入れ替え、シーズンに臨む。

全国の舞台で感じた、確かな手応え

翌年6月、藤倉はU17関東選抜として、全国大会に出場。

自身のテーマにしていたスクラムでも「関東では敵なし」と言い切れるほどに手応えを感じていた。

秋の全国地区予選も順調に勝ち上がり、「自分の力を出し切る」ことを目標に花園に出発した。

昨年よりも格段に成長した藤倉は、2度目の花園で4トライを挙げ、スクラムでもチームを前に出し続けて大会ベストフィフティーンに選ばれる活躍でチームの躍進に貢献した。

 

しかし優秀選手賞を受け取った後も、「上には上がいる。喜ぶのはその日だけ、その瞬間だけ。次の日からは過去の栄光でしかないから。」と、一喜一憂せず次のステージに目を向ける。

先が見えなかったリハビリ生活

最後の花園に向けて菅平での夏合宿を目前に控えた7月、藤倉を思いもよらぬ悲劇が襲った。

左膝半月板損傷。引退までに再び競技復帰するためには、すぐに手術を行う必要があった。

チームドクターとも相談した上で、7/18にオペを実施。それからは先の長い4ヶ月間のリハビリ生活が続いた。

足の指先の神経まで集中を研ぎすませ、体の細部を意識しながらきついリハビリと向き合う日々。上半身のさらなる強化も図るべく、授業がない日は1日中ウエイトルームに身をおいた。すべては花園でスクラムを組むために。

自分の道のその先に…

地道なリハビリ生活を耐え抜いた藤倉は、全国地区予選の準決勝で復帰を果たす。試合開始直後、序盤から40m以上の独走で会場を沸かし「膝は全く怖くなかった」と、見事な復帰戦勝利を飾った。チームは順調に決勝戦にも勝利し、藤倉は3年連続スタメンでの花園出場を果たしたが、それでもなお満足することはない。

 

試合に出ることができない仲間のため、入部当初から宣言し続けてきた目標を達成するため、そして天国にいる母に恩返しをするため。藤倉は125kgの巨体を武器に人生最後の花園へ挑む。

 

情熱と気合、そして地道な努力の賜物である藤倉のスクラムが今年も会場を沸かせることは間違いない。

初戦の相手は昨年敗れた報徳学園。

 

誰もが熱戦を期待する強豪校対決に、藤倉は絶対的な自信を持ってスクラムで挑む。

文:永山淳

​著作:ESC Academy

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